「大地を踏みしめる仕事がしたかった」林業マンになるためにしたこと&変えたこと/東京チェンソーズ 青木亮輔

日本は国土の7割が森林。世界有数の森林大国でありながら、林業は斜陽産業とされて久しい。だが、このところ林業業界で働きたいという人々が増えている。そのきっかけとなる人物が「東京チェンソーズ」代表の青木亮輔さんだ。東京の最西端、秘境と称される檜原村に移住し「稼げて未来へとつなげる」林業を実践。新しいことに果敢にチャレンジする青木さんとは?

デスクワークじゃない!
大地を踏みしめる仕事がしたかった

2006年に誕生した「東京チェンソーズ」。青木亮輔さんが仲間ら4人ではじめた林業施業会社だ。当時、青木さんは29歳、東京都森林組合を退職しての独立だった。

そもそも青木さんは林業を志していない。きっかけは東京農業大学卒業後、第二新卒で就職した会社だ。幼少期から自然に親しみ、大学では探検部主将として活動してきた青木さんにとって、はじめての社会人経験はジレンマとの戦いだった。

「英語教材を主とした出版社に入り、出社してから帰るまでひたすら電話営業をする毎日でした。探検部ではモンゴルの洞窟調査やメコン川の全流航下に邁進していたのに、ずっと内勤業務でどうしようもないくらいに辛かったんです」

このままではダメだ、転職しよう、と青木さんは仕事について思いを巡らせた。
「大学時代、造園のアルバイトをしていたことを思い出しました。地下足袋を履いて土を踏んで仕事をしていたことが気持ちよかったなぁ、って。やはり自分はデスクに張り付くのではなく、野外での仕事に就こう、林業の世界に飛び込もうと決めたんです」

若者がいない業界。
ならば自分にもチャンスがあると思った

農大の林学科(現・森林総合科学科)を出ていても、林業の仕事がすぐに見つかるわけではない。あちこちの林業事業体にアプローチしたが、林業=衰退した産業だ。そうそう雇用があるはずもない。が、厚生労働省による緊急雇用対策事業で、東京の森林組合が半年間限定で働き手を募集していたのだった。偶然にも、いや運良く、青木さんはそこに採用された。

「奥多摩と檜原村の二カ所の募集があって。大学の演習林として馴染みがあった奥多摩を希望したのですが、なんのゆかりもない檜原村で採用。2001年、24歳のときでした」

晴れて念願の林業マンに! と思うのは早計だ。なにしろ緊急雇用対策である。失業した人たちを一時的になんとかするというものだから、青木さん以外は林業への思い入れなんてない。さまざまな経験をしてきた人、生きるか死ぬかの瀬戸際……など、なんとも個性的な人が集まっていた。

「自分以外は中高年ばかり。プレハブでの自炊生活で夜は必ず飲み会になって、いろんな人生を聞くのが面白かったですね。仕事自体は林道の整備など作業的に難しいものではなく、本格的な林業ではなかったけれども、自然の中で働いていることが楽しかった。それに林業には若者がいない。ならば自分にもチャンスがあると確信しました」

平均年齢30歳、
若き林業事業体が誕生

半年という限られた期間ではあるが、このまま森林組合にいるべく青木さんは画策する。「積極的に仕事をこなし、体力もあることを見せつけるなどして、“使えるヤツ”であることを猛烈にアピールしました。そのかいあって(笑)、期間が半年延長されました」

その後、正式に森林組合の一員となり、林業マンとしての道を進む。現場仕事はもとより、申請書類の作成や、どの現場に誰を配置するかといった事務仕事も経験した。50~60代がメインの森林組合に若い人材も入り、自分たちの仕事と報酬に疑問を持つようになった。

「月給ではなく日給です。雨が降れば現場は休みですから、その日の給料は出ません。現場がなければ手取り10万円に満たないこともありました。年金をもらっている先輩方が多く、そうした人たちは無理に働く必要がないので、自分たち若い世代が『雨でも働きたい』と言ってもなかなか聞き入れてもらえませんでした」

若手で集まり待遇について話し合い、森林組合となんども話し合いの場を持ちました。もちろん、自分たちの要求だけを訴えたのではない。若手のペースで作業すれば現状よりも利益が出るというメリットも伝えた。ようやく待遇改善が見込めるかというときに、
「西多摩6市町村の森林組合が広域合併してしまい、待遇改善の話が流れてしまったんです。内部班を外注化という話も出たので、そこで独立という考えに至りました」

2006年7月のことだ。29歳だった青木さんが代表となり、森林組合の仲間である4人とともに新たな林業事業体=東京チェンソーズが誕生した。平均年齢30歳。ひとり15万円を持ち寄ってのスタートだった。

メディアから続々注目を集める林業マンに

「やりがいだけでなく、安定した生活ができる林業」を行うべく独立した青木さん。最初から月給制で社会保険も設けた。そのために必要な資金はいくらなのか? それには何ヘクタールの現場をこなせばいいのか? を明確にして仕事を進めたという。

独立当初は森林組合の下請けとして、間伐業務が多かったという。
「いかに早く丁寧に仕上げるかを考えていましたから、よそよりも仕事が早く、すぐに次の現場がやってきました。でも下請けは単価が決まっているからいずれ限界が来る。元請けにならなければ、と新しい林業を目指すことにしました」

起業して4年、2010年のことだ。創業メンバー4人のうち、青木さんと、現在も森林整備と広報業務を担う木田正人さん以外のふたりは「下請けのままがいい」と独立することになった。

青木さんと木田さんだけで下請け&元請けができるのか? となるが、ここで東京都の地域人材育成制度を利用して新たに3名が入社した。みな林業は初体験だった。

そして、東京都では4番目の林業認定事業体として入札資格を取った東京チェンソーズ。地元・檜原村をはじめ、青梅、多摩地域の森林整備と管理を多々担うことに。下請けから元請けになり、また、個人の山主からの受注も増え、クライアントの顔が見えるようになった。

そしてまた、林業を知らない一般の人たちに「森を知ってもらいたい」とツリークライミング(専用のロープとサドルで木に登ること)のイベントもはじめた。青木さんらが目標としていた“稼げる林業、顔が見える林業”が現実のものとなってきた。

そうこうするうち、青木さん、そして東京チェンソーズの存在は“東京の林業マン”としてさまざまなメディアから注目を集めるようになったのだった。

“顔の見える”林業を実現するべくプロジェクトをスタート

林業は、ほかの一次産業(農業・漁業)と異なり、すぐに結果が見えない。今、植えた苗が木材になるのは20~60年後ぐらいのこと。長いスパンで取り組む仕事なのである。それに目の前の収益だけでなく、環境保存という役割も持っている。

林業のプロとして、美しい森林を育てるだけでなく、その恵みを人々に届ける。青木さんは、そんな“顔の見える林業”を目指すようになるが、「公共事業だけでは実現できません。そこで事務所近くの山林(10ヘクタール)を購入して社有林に。自分たちで木材生産をすることにしました」

それだけではない。東京の木を活かすことを実践するべく、青木さんは檜原村産の材(もちろん社有林のだ)で自宅を新築した。無垢材の気持ちよさを体感できる素敵な家となった。木を育て活かすという、極めて当たり前のことをしてみせた。

さらに青木さんは、持続可能な森林を育てるためのプロジェクトとして『東京美林倶楽部』を2015年にスタートさせる。入会金5万円で苗木(花粉の少ないスギやヒノキ)を3本植え、25年後に育てたうちの2本を伐採するというものだ。


「伐った2本はお好きなようにお使いいただくというものです。家具や玩具、ご希望に応じて加工します。お子さんが産まれた記念に入会くださった方がけっこういらっしゃいますよ。残りの1本は、そのまま山に残し、次世代へと続く美しい森林となるんです。今年4月には第5期がスタートしました」

補助金に頼り、衰退された林業から脱した東京チェンソーズは、現状に甘んじていない。

「檜原村をドイツのザイフェン村と同じように“おもちゃの村”にする」べく、木材加工工場をつくり、未利用材を有効活用するアイデアも豊富で、都会に森の恵みを届ける『森デリバリー』もはじめた。それらについては次回で紹介していこう。