10代からのスキを追求。世界から注目を集める“小さな洋服屋”ができるまで/the Apartment 大橋高歩

ここ数年、ファッションの世界では“90年代リバイバル”と呼ばれる現象が起きている。当時のストリートファッションの要素が再燃しているのだ。それに呼応するように世界的に注目されているのが、吉祥寺にあるヴィンテージ古着&セレクトショップの「the Apartment」。彼らはどのようにシーンに躍り出たのだろうか。

10代で衝撃を受けたストリートスタイルから何も変わっていない

「the Apartment」を一躍有名にしたのは、人気アウトドアブランド、ザ・ノース・フェイスの圧倒的なコレクション。90年代に発売されたアウターはコンプリート(当時のカタログに掲載されているもの)されており、世界随一のコレクションと言われる。
 
「当時のアウトドアブランドやスポーツブランドの製品って、年齢設定をせずに作られていたんです。だから、若い人もおじさんも同じものを着ていた。僕らはファッションというよりも、メイドインUSAでクオリティも高い、ベーシックなアイテムを扱っているつもりです」

大橋さんは東京都板橋区の生まれ。小学校の高学年時代に『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の「ダンス甲子園」に胸を踊らせ、中学生でクラブカルチャーへと傾倒。その後、高校時代からは迷彩柄のウェアやティンバーランドのブーツといった、アメリカ東海岸のストリートスタイルを追うようになった。実は、そこから現在まで基本のスタイルは変わっていない。

「ザ・ノース・フェイスとの出会いは、中学のときに買ったヌプシ・ジャケット(同ブランドの代名詞ともいえるダウンジャケット)。とにかく黒×黄色のカラーリングが大好きだったんです。以来、ずっとザ・ノース・フェイスばかり着ていたので、周囲も”大橋の好きなブランド”という感じでキャラ化していって、途中からは使命感も芽生えて買い集めていきました」

飲み屋での愚痴トークから、お店を始めることが決定

お小遣いやアルバイトで稼いだお金は、すべてレコードか洋服に消えていった大橋さん。就職難だったこともあり、大学卒業後は自営業としてさまざまな仕事をし、夜はクラブで過ごすという日々。一方、20代後半に引き受けた高額な受注案件で一時的なバブルを体験。そのときもレコードと洋服ばかり買っていたが、約3年でその仕事も陰りを見せる。

「年末に旧友3人で飲みに行ったんですよ。そしたら、会社員の彼らも不景気の波にやられていて。それなら3人で何かをやろうという話になって。最初は自分が好きな銭湯がいいなと思ったんですけど、お金がかかるから却下。次にサボテン屋をやろうという話になりましたけど、どこで仕入れていいかわからずに却下。最後に僕がNYに行って洋服を買い付けてくるという話になって、店を出すことになったんです」

すべては一夜の飲み会の話。その後すぐに、3人で計100万円を出し合って小さな洋服屋をオープン。その数カ月後には、売上全額を握りしめ、初のNYに単身で旅立った。ちなみに、当時の大橋さんは英語を喋れなかったという。

「2009年頃って細身ファッションの全盛期だったんです。自分含め、その流れに乗れない奴が多くて。そういう友だちが約30人いたので、彼らが月に1回・1万円買ってくれたら30万円。いけるっしょみたいな(笑)」

最初から破綻確定の計画。経営のイロハも知らず、現金を握りしめてNYに降り立った大橋さん。下調べもなく、ヒップホップを通じて知り得た情報だけを頼りに街を歩き、チャンピオンやザ・ノース・フェイスといったブランドを、フツーの店でフツーに定価購入していった。

「ホールセールって言葉を知らなかったんです。買い付けの基準は、”これはアイツが買うだろうな”という感じ。デカいサイズなら、売れ残っても自分が着れるなって。あと、足りないぶんは自分の古着をお店に並べて」

ここまでの話だけなら一年もせずに潰れそうだ。

東日本大震災のピンチが浮上のきっかけに

「まずは今でいうバズを作ろうとなって、フライヤー(チラシ)を作ったんです。他では絶対に買えないキレキレのアイテムを載せて、高円寺のお店やクラブに置かせてもらったらすぐに評判になって。アパレル関係の人も来てくれて、そのまま順調に現在まできています」

にわかに信じられない話だ。しかし、お客さんが着実に来店し、洋服もコンスタントに売れていたものの、実質的には赤字の状態が続いたという。

「貯金ができないんですよ。いくら売れても、家賃と買い付けのお金で消えていく。仕方なくレコードを売ったり、働きに出たりしながらしのいでいました。新たに買い付けたものが売れなかったら即終了な状況。そこに東日本大震災がくるわけです。完全に終わったと思いました」

周囲の経済活動がほぼストップする状況が急遽発生。そこでとった行動が新たな展開を生むこととなる。

「最後にかっこいいことをやろうと思って、震災Tシャツを宮城県の工場で作ったんです。その売り上げを100%寄付してやめようと。そしたら、ブログを見てくれた東北の人を中心に反響があって。その他にも、被災地の県から注文が入ったら、”お金はいらないんで使ってください”と手紙に書いて無料でガンガン送っていたんです。そしたら”あの店、熱い”みたいに、その地域で噂が広まって。結局、その人たちは被災してなかったらしいんですけど(笑)」

それらの行いにより、ファンのコミュニティが全国区で生まれネット注文が増加。これまで以上の売り上げとなった。また、NYに通い続けたことにより生まれた人脈、海外コレクターとの出会い、Instagramを見た外国人の反応などが積み重なり、海外のアパレル関係者が来店するなど、現在までに続く隆盛が生まれることになったという。世の中、わからないものである。

次回は、現在の仕事や働き方について紹介していく。