故人のSNSはお墓と同じ役割を果たすのか?ネット時代の追悼について考える

ネットが身近な世の中の追悼の仕方

故人を偲ぶもの……遺骨に遺影、遺作に遺アカウント?

ある女性アナウンサーの遺したツイートが姿を消すまで

今春直前、あるフリーアナウンサーの女性が50代前半で病没した。往年はメディアで大いに活躍していた人で、一貫して病気のことを伏せていたこともあり、予想外の訃報にショックを隠しきれない人が相次いだ。その動揺はオンライン上にも様々な形となって現れた。

印象的だったのは、彼女が残したツイッターに寄せられたファンの反応だ。彼女はブログも残していたが、最近まで更新していたのがツイッターだったので、追悼コメントはこちらに集中した。「信じられない。嘘であってほしい」「亡くなるの早すぎです」「残念でたまりません。ご冥福をお祈りします」等々、かけられる言葉はどれも心がこもっている。

しかし、皆がレスしている先はスパムツイートなのだ。

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彼女は亡くなる数カ月前からツイッターを更新しておらず、放置状態になっていた。その間におそらくは乗っ取りに遭い、猛烈なレイバンスパムの宣伝ツイートが彼女本来の投稿をタイムラインの下方に押しやってしまった。そうして、生前最期の投稿たるスパムツイートに追悼レスが連なったというわけだ。

その光景は、故人宅の塀につけられた落書きにたくさんの花が手向けられているのに似ていて、なんとも異様だ。家や塀は確かに故人のゆかりのあるものだが、落書きは赤の他人による迷惑行為の残滓でしかない。それなのに、彼女の生前最後の痕跡と捉えて手を合わせる人が何人もいる……。

すでに彼女のアカウントは凍結されている。凍結ということは、通報等を根拠にしたツイッター社の判断による措置だろう。少なくとも本人の意思ではない。亡くなる少し前にスパムに乗っ取られたことで、彼女自身のツイートも厚いベールで覆われてしまったことになる(もっとも、死後も残しておく気があったのかは知るよしもないが)。

ツイッターは故人のアカウントについて「権限のある遺産管理人または故人の家族とともにアカウントを削除するようにします」(ヘルプセンター)というスタンス。故人のアカウントを継続管理する道筋は公式には用意していない。

少なくとも追悼コメントが残せた そこに大きな意味があると思う

凍結された彼女のツイッターを眺めて思う。彼女の死後、このアカウントにはいったいどんな意味があったのだろう?

スパムの乗っ取りはロボットが絨毯爆撃しているだけなので誰の意思も働いていない。悪意やいたずら心すらないだけに、塀に落書きするよりも意味性は薄いといえる。風が吹いて庭の植木鉢が倒れたくらいのことでしかないかもしれない。

では、ファンの追悼コメントは同じように無意味に近いものだったろうか。私はそうじゃないと思う。

コメントには強い気持ちが込められていた。その思いを投稿した時点で投稿した側には意味が発生しているし、複数のレスが連なったことで、傍目にも「ああ多くの人に追悼されているな」と感じられる効果が生まれている。拠点は選んだ方がいいと思うけれども、そこに本気の追悼行為があったのは確かだ。

人が亡くなったときにこみ上げてくる感情を、それなりに礼節をわきまえて表現する。それが追悼の本質のひとつだと思う。故人に伝わるとか、死後の世界に作用するとかは、検証できないから何とも言えない。けれど、喪失の悲しみをため込まずに表に出して、あわよくば他の人と共感しあうことは残された人にとって重要だ。

だから、彼女のツイッターは、スパムに乗っ取られてもなお意味があったと思う。凍結されてしまったいまは新たな意味を生み出せないかもしれないが、訃報が世に流れたときにレスがつけられる状態であったことには価値があったはずだ。

アカウントが乗っ取られたとしても故人の息吹だけは奪われない


スパムの乗っ取り行為は許容できないが、それとは別に、追悼の拠り所は柔軟に広がっていっていいと思う。

拠り所は何だっていいはずだ。たとえば日本でメジャーな拠り所である遺骨(遺灰)は、火葬場で燃えた時点でDNA情報を失っている。DNA重視で供養するなら、遺伝子情報がきちんと残されていて長期保存が利く遺髪を中心に据えたほうがいいが、そんな動きはあまり聞かない。それは遺骨云々ではなく、遺骨中心で培われてきた文化や風習が追悼するのに都合がいい説得力を与えてくれるからだと思う。

そもそも故人を思って手を合わせることは、場所も時間もシチュエーションも関係なくできる。それでも人が拠り所をほしがるのは、自分の外側にも追悼の理由になるものがあったほうがやりやすいし、納得しやすいからだ。納得するに足る拠り所は、遺骨や遺影、お墓に仏壇、あるいは故人の形見の品など様々ある。共通するのは、故人の息吹が感じられるというところだ。

そう考えたとき、SNSやブログというのは、なかなか説得力のある拠り所になるのではないかと思う。将来的にデザインやインターフェイスが変わっても、故人が利用していたアカウントという事実は永遠に揺らがない。

故人のSNSやブログは遺灰やお墓と同じ役割を果たすか?

最近は日本で年間130万人の人が亡くなっているが、なかには「直葬(ちょくそう)」といって葬式をせずに火葬だけで終える人もいて、都心では1割以上を占めるのでは、という説もある。

そして、直葬を済ませた後に追悼不足を感じる遺族が増えているというアンケート結果が複数ある。「やっぱりきちんとした葬式をやっておけばよかった」という後悔から、後日お別れの会を開いたりする動きがあるそうだ。

そういう偲び足りなさにも、故人のSNSやブログは救いになるんじゃないか。全然更新していなくても、荒らされていても、何かしらのプラスの意味を与える力が残されているんじゃないか。そんなようなことを考えながら、彼女のツイッターを閉じた。

古田雄介(ふるたゆうすけ):デジタル遺品の現状を追うライターで、デジタル遺品研究会ルクシー理事。著書に『故人サイト』(社会評論社)『[ここが知りたい!]デジタル遺品』(技術評論社)など。

『デジモノステーション』2018年12月号より抜粋。